知を愛するノリゾーのブログ

哲学の知識を整理しつつ、身近に起こったことに対してのまとめをしていく。

〜道徳とは(2)〜

結果が大事

 ジェレミーベンサムは自分のしたことが良いことか悪いことかは

 結果によって判断させるとした

 自分の行為の苦痛と幸福感とを差し引いたものを「功利」と呼び

 このような考え方を「功利主義」という

功利主義とは

 カントの道徳の思考とは異なり

 多少の悪い行いは結果的に幸福に繋がるのであれば正しいという考えだ

 例えば

  友達が待ち合わせの時間に遅れてきたとしよう

  遅れてきた友達に対して「今着いたところ」と嘘をつく

  遅れてきた方は気まづさが和らぐ

 このように

 軽い嘘が結果として良い方向に向かうのであれば正しいものとなる

  (カントの場合はどんな答えであっても真実を伝えなければいけない)

 

カントとベンサムの思考

 カントの思考では定言命法によりいかなる時も適応されなければならず

少しも融通がきかず、感情移入が一切ない

 ベンサムの思考では自分でその先に起こる幸福値を考え

行動の選択をする 

 

 〜道徳とは(3)〜ではある問題についてそれぞれの思考で考えていく

 

 

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〜道徳とは(1)〜

感情は関係ない

 イマヌエル・カントは道徳とは何をするかではなく、

 なぜするかであると言っている

 感情によって良い悪いを判断するのではなく理性のみである

 またカントは「定言命法」が道徳であると考えた

定言命法とは

 これは命令文に近く定言命令ともいう

 「無条件に〜せよ」と命じるものである

 命令とは一般的な秩序である

 例えば 「嘘をつくな」 

     「盗みをするな」

     「ルールを破るな」  

 といったものである

 

 これと反対に仮言命法がある

 「〇〇がほしければ⬜︎⬜︎せよとなる」

 例えば 「信頼を失いたくないなら嘘をつくな」 となる

 

  道徳的or非道徳的

 カントの考え方では

 信頼を失いたくないから嘘をつかないという考え方が間違っているという

 自分の損得を考えて、もし嘘をついてしまうと自分の信頼が下がってしまうから嘘をつかないように判断したというものなら非道徳的である

 そうではなく、

人は嘘をついてはいけないという考えのもとに判断したならば道徳的であるという

 極端な考え方だと思われるかもしれないが自分を中心として物事を判断してしまうことは良くない

 感情に左右されずに理性によって判断することができれば道徳的でいられる

 

若い読者のための哲学史 (Yale University Press Little Histor)

若い読者のための哲学史 (Yale University Press Little Histor)

 

〜神様はいるのか、いないのか〜

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思考テーマ

 今回の思考テーマ

 「自分の中での神様とは?」

 「今の時代の宗教とは?」

 これらのテーマをもとに思考していく

 

世界三大宗教での神様

 世界三大宗教と呼ばれる3つの神様をまとめてみた

 キリスト教では唯一の神『父、子、聖霊』からなる三位一体の神

 イスラム教では神(アッラー

 仏教では認識として仏陀ブッダが崇拝されている

 

それぞれの宗教の特徴

  キリスト教では『父、子、聖霊』のうち、子なる神のイエス・キリスト

 イスラム教では最後の預言者ムハンマド

 仏教では仏陀の悟りをもとに更に悟りを開こうとした数々の仏様がいる

 

 私の宗教観

 私の中で神様は、いると思っている

 どこにいるのか?について考えていきたい

 まず宗教の始まりとは、死に恐怖を抱く者や災害、飢饉などの自然災害からくる不安など悩みが神の悟りや教えで解消することにより多くの人が信仰し広まったのだと思う

 でもその教えは誰が広めたのだろう

 私の考えとして

 「人はなぜ生まれ、死んでいくのか」

 「なぜこんなに苦しむのか」

 「もっと豊かになる方法はないのか」

 などといった思考に対して、悟りを開いた者だと思う

 彼らが導き出した答えを広めるためのシナリオが各宗教にあたるものではないだろうか

 そのため、神様はシナリオ別に作り出された概念的存在である

 よって

 神様は一人一人の意識の中のみに存在する

 

 今の時代の宗教とは?

 最近の宗教に対しての印象は

 「日本人だから仏教だろう」

 「特に決まってないから自分は無宗教だ」

 「節分やクリスマスなどミックスされているため宗教の縛りがない」

 このような状況だろう

 私は様々な宗派がミックスされた新しい宗教が出来上がっていると思う

 また、今の時代には宗教の根源となる悟りを開いた者に近い存在がいる

 それはインフルエンサーと呼ばれる人たちだ

 彼らは仏教でいう仏に近い

 もっと豊かになる方法を一味違う観点から見ることが出来る人や時代の変化に急速に対応し情報を広めている人たちがたくさんいる

 

 新しい宗教の中で自分の助けとなる仏に学び

 人生を切り抜けていくのはどうだろう

 

 

〜人は死を意識すると本気になる〜

◯死=終わり

 死を意識した時自分の人生を振り返り今何が出来るのか、やり残したことはないかと考えるのではないか。

 

 死というと大きく捉えすぎかもしれない。自分の周りで起きる様々な終わりは死と同じ意味合いで捉えてみるとどうだろう。今の立場で活躍できる任期があるとして、満了した時点で終わりを迎える。終わりこそ死として捉えていいと思う。

 

 クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーもそうだったと思う。自身の終わりが近づいた時、何が正しかったのかに気づき正しい行動に繋げることが出来た。

 人を本気にさせることは難しいが、『このまま終わっていいのか』と相手に伝えてみてほしい。

〜ストイック〜

◯哲学的になる

 自分の周りに起きた現象の自分ではどうしようもなく変えられない事をそのまま受け入れる。これをストイックという言葉で表される。ストイックという言葉の由来は、ストア哲学に由来する。古代ギリシャの初期ストア派は自分の変えられる事にのみを心配せよというのが基本的な考え方だ。大きな出来事が起きても何が起きるかはコントロールする事ができないことが多いが、それにどう対応するかはコントロールできるからだ。

 このストア哲学の考え方はスポーツ心理学に通ずるところがあると思う。感情の抑制をする事により過度の緊張状態で思考が鈍りミスを誘発してしまいそうな場面でも感情を鎮める事ができる。自分の持っている技能を大事な場面で発揮するためにもこの思考を常日頃から心掛ける事でそのような場面でも対処ができるだろう。

 だがストア哲学では感情によって論理が曖昧になり、判断が損なわれるとされ感情は制御するだけでなく可能な限り排除すべきと考えられた。これでは人間性が損なわれてしまいロボットのようなものになってしまう。ストア哲学の教えを踏まえさらに発展させ思考を豊かにしていく必要がありそうだ。

〜権威による真実〜

◯自分で考える

 権威のある人が正しいと言ったことが全て正しいと信じてしまう。

 物事の正しいとする証明に権威の意見に左右されてはいけない。中世の時代にアリストテレスのが全て正しいと信じていた人々は間違いに気づかずそれが真実であると思い込んでしまっていた。そのような考えでは自分の思考を発展させることが出来ない。

 常に今までの見解を疑うことを怠らず、別の可能性を探り発展させていきたい。

〜いかに生きるべきか〜

◯幸福を求める

 自分のしたいこと、楽しいことをするということが幸福だと思ってそれを求めて人生を過ごしてきたがアリストテレスはそうは思ってないなかったようだ。アリストテレスは楽しいだけではいい人生ではなく、エウダイモニアという言葉を用いて人間にとって最も良いのは理性の力を使って生きることだと表現している。人間には動物などと異なる点として、何をすべきかを考え、議論できる事が出来ると言っている。

 私は最近、大きい仕事が一区切りつき、また新たな仕事に変わり取り組んでいる。今までの仕事に約5年間全てを費やし、それを中心に目標や仕事のやりがいや楽しみを見出していた。それが終わった今、これからのそれに代わるものはなんだろうと考えていた。そこで頭を過ぎったのは、エウダイモニアだ。幸福とは感じるものだという考え方に慣れてしまっていたが、人生で何を成し遂げたかに焦点を当てるべきなのではと気づかせてくれた。だが、そのエウダイモニアはどういう事を行うことで到達できるのだろうか。これについてもアリストテレスは答えてくれた。

 彼の答えは『徳性を養う』こと。わたしたちは正しいときに正しい感情を抱く必要があり、そうすることで正しい行いができる。したがって、人生の楽しみを増やすのではなく、より良い人間になり、正しい事をすべきだと。

 私は人生の楽しみを目の前のその瞬間の楽しみと感じ取っていたと思った。だが、一人の人間として生きていく中で長期での自分の考えが必要と考え直す事が出来た。今は、知識と様々な経験を増やしその都度正しい行いはどういったものなのか考えを巡らせながら生きていく必要があると感じた。

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